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尾山神社から、金沢城の正門・大手門へと向かう途中にある「甚右衛門坂」。
近江町市場からも近い場所で、尾山神社と尾崎神社の間にあります。
金沢城内へと続く坂道なのですが、現在は関係者用出入り口になっていてあまり人気はないのですが、坂の名前の由来がなかなか壮絶でした。
ちなみに江戸時代、この辺りには伴天連屋敷もあったとされています。

甚右衛門坂は金沢城内へと登る坂道で、土橋門へと続いています。
甚右衛門坂という名前は、平野甚右衛門という人に由来してつけられたそう。
まだ前田利家が入城する前、金沢城のあった場所は、一向宗の拠点・金沢御堂がありました。
歴史でも習った加賀一向一揆の拠点です。
天正8年(1580)、織田軍の佐久間盛政の軍勢が金沢御堂(尾山御堂)を攻めた際、本願寺方の浪士・平野甚右衛門がこの坂で奮闘し、壮絶な討死を遂げたという場所です。
そこで平野甚右衛門さんの名前を坂道につけて「甚右衛門坂」と呼ばれるようになったらしい。
……討ち死にした人の名前をつけたのか……
そして織田軍と敵対した人の名前でしょ、前田家はそこよかったのか……?
いつから名付けられたのか定かじゃないけど、庶民の間で親しまれた名前がいつの間にか使われるようになったのか?
にしても、由来を聞くとなかなかすごい名前だな。

甚右衛門坂は、現在は関係者用出入り口となっているため、残念ながら通行はできません。
坂道を登った先は関係者用駐車場と管理事務所があります。
金沢城内でのイベントの際、出演者はこの坂道を通ることができたりしたこともありました。
坂道を登った先は、金沢城土橋門。
なので甚右衛門坂の上と下は見れます。一応。


甚右衛門坂下には、伴天連屋敷が集まっていたそうです。
キリシタン大名の高山右近が、豊臣秀吉の出した伴天連追放令で追放されてしまうんですが、前田利家が右近を迎え入れて加賀藩に滞在していたのです。
そのこともあって、丹波国守護代内藤家出身の内藤如安や、宇喜多秀家に仕えていた浮田休閑などのキリシタン武将が高山右近を頼って加賀藩に集まったんでしょうね。
なので金沢には高山右近ゆかりの地や教会がけっこうあるのです。
ただ、慶長19年(1614)江戸幕府によって出された「キリシタン禁教令」が発布され、これに従わない者や宣教師は国外追放されてしまうことになるのですね。
そして高山右近と内藤如安はマニラへ、浮田休閑は津軽へと流され、その地で人生を終えたそうです。

残念ながら今では伴天連屋敷跡はないんですけど、そんなこともあったんだなぁと思うと感慨深いですねぇ。

所在地 | 〒920-0918 石川県金沢市尾山町7−41 |
---|---|
駐車場 | なし |
アクセス | 近江町市場からら徒歩約5分 |
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